「決まったことだからしょうがない」
そのモノの考え方が惰性を強化する。
まず、「自分が」「日本が」賄賂でこの大会を買ったことを認めろ。
「周りもやってる」ではない。
「周りがやってりゃ自分もやっていいのか、お前のその在り方はヒトとして誇れるか」
そこを答えろ。
誇りたきゃ誇れ。それはそれで一つの生き方だ。俺は好みではないがそれだけの話だ。
「まわりもやってる」
「周知の暗黙の事実」
逃げんなよ。
その逃げで正面から疑問に答えることを回避し続けた姑息が感動を産めると思うのか。
俺は引っかかるね。
「けどこれ賄賂で買ったんだよね」
と。
その疑問がはぐらかされることに引っかかるね。
「賄賂で買ったよ、けどこれは価値があるんだ」
ならまだいい。
「分かったからそれはおまえらだけでどうにかしてくださいよ」
となる。
ゼニカネの負担はその「賄賂で買うだけの価値を認める人たち」によって分担されればよい。まったく幸せな構図だ。
賄賂で買ってきた大会に出場できてニコニコの人も
賄賂で買ってきた大会に合わせてハコモノでニコニコの人も
そこに価値を認めてるのなら出資するだけの意義があるだろう。
ハコモノなりを作ることのトリクルダウンとやらもあるかもしれない。
(道が良くなった、ごく稀に使う体育施設が豪華になった、など俺に恩恵がないとも言い切れない)
だから、
「賄賂で買ってきたけど、この大会のトリクルダウンでオマエラにも恩恵があるよ」
って言われたら簡単に靡くよ。
その程度だ。
現状それですらないじゃん。
「賄賂で買ってきたが、それだけの価値がある」ということを証明しようともせずに
「賄賂は使ってない(訴追怖いから渡欧できないけど)」
「賄賂は世界の常識(だから俺は無罪)」
みたいなのしか出てこない。
文化を名乗りたければ、この姑息をどうにかしてからほざけ。
大人の事情?
大人だって「みんなやってる」スピード違反をオマワリに捕まったら
「運が悪い」「畜生め」と内心で思いつつも「決まり事」「奇麗事」には従うんだよ。
まともな大人なら「みんなやってる」は言い訳にならないことを知っている。
「みんなやってる」ことではなくて「オマエ」がやったことが問われている。
問われているのは「おまえがどう思うか」だ。
みんなに逃げるな。
ヒトを感動とやらに巻き込みたければ、ヒトの質問には正面から答えろ。
他者の疑問をはぐらかしながら、自分の要求を通そうとするその態度が気にくわねえんだよ。
ここは俺の日記帳。
好きに喚かせてもらう。
くたばれ、オリンピック。