afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

毎日がエブリデイ。

寒いし体温下がらないし寝てられないし。
体が弱ってるのに眠られないってきつい。
そういう時に限って妄想はいっぱい広がっていくんだ。

繰り返し繰り返しの妄想。

 

「恋する死者の夜(作:古橋秀之)」の世界がもしリアルになったら?
そんなことを考えていた。
考えているうちに作品の本来の世界観からは外れてしまったが、なに妄想とはさふいふものだ。
というわけで思い出しながら書いてみる。

 

 

ある日を境に、世界が先に進まなくなった。
今日が暮れれば、夜明けとともにやってくるのはやっぱり、今日である。
その世界では死者が死者のまま生きている。
生きているというか、生きていた最後の日を繰り返している。
コンビニでおにぎり温めるバイトをしていたお兄さんは、スマホ見ながら歩いててついうっかり赤信号で渡ってトラックに轢かれたけども、繰り返しやってくる今日の中では、今日も元気よくおにぎりを温めている。
いずれも死ぬ前にやっていたことを繰り返してくれるので、社会を回すうえではいっぱい都合のいいことになっている。
少し困るところといえば、生きている人間が

「今日は今日だけれども、前回の「今日」とは違うものが食べたい」

などと望んでおにぎりではなくアイスをレジに出したとしてもお兄さんは

「おにぎり あたためますか」

と聞いて、こちらの返事を聞かないうちに冷たいアイスをレンジにぶち込んでしまうところだ。

死者は生前にやっていたことを繰り返すけれども、それは決して生者とのコミュニケーションが成り立つというわけではなくて、彼らが生前に過ごした日をそのままトレースしているだけに過ぎないのだ。

だから例えば、死者の生徒を前に生者の教師が前回の「今日」とは違う授業をしてみたところで
死せる生徒は普段の今日と同じように、決まったところで笑い、決まったところでノートをとり、板書もされていないままの黒板をにらんでノートをとる。その繰り返しが延々と続くだけである。

放課後になれば校庭を走る生者のランナーがどれほど速く、いやどれほど遅く走ろうとも、計時にあたる死者がいつもの今日とピッタリ同じタイムでストップウォッチを押し

「いいちょうしですね せんぱい」

などと血の気のない笑顔を浮かべたりする。

世の中が回る分にはさして問題はないのかもしれないが、こうして繰り返す「今日」の中で上がった収益や、被った損害は灯が変わるとリセットされてしまうのは大きな問題だった。
今日の経済活動をどれほど頑張ろうと、次にやってくる今日にはその利潤は引き継ぐことが出来ないのだ。
これはデータというのが無機的で言ってしまえば「死んでいる」ようなものだから、同じことの繰り返しになるのではないか、とか言われていたけれども深くは掘り下げて検証されたりしなかった。
ネッツのやり取りもまた、日付が変わったところで、今日の零時にリセットされるからだ。
ブックマークも、ブログの新着記事も、SNSの書き込み、2ちゃんねるのスレッドも同じく。
生者が中身を変えてブログを書き、スレッドを立てようなどと試みたこともあるけれども、不可能ではないがそれは今日の24時間の寿命しか持てないので、まったく議論や検討が深まることなく終わる。
最初のうちはそれでもわずか24時間のうちに限界まで交流を図る生者が居たが、それもやがて途絶えた。
画面の向こう、スマホの向こう側の生者がいつの間にか死者になっているということがザラにあったからだ。

死者になっても死ぬことはない、別に消えるわけではないというのは人々の自死に向かうハードルを著しく下げた。

それに経済活動に血道を上げていた人間たちにとって、今の状況というのはあまりにも味気ないものであった。
日暮れまで必死で組み上げた建物は夜明けとともに更地になり、荒野に伸びたはずの道路は元の原野に、川を跨いだはずの橋も夜が明ければ雲散霧消する、という今日が何度も何度も繰り返すようになればさすがに気が滅入る。
生者であればそうした輪から逃れて、生者だけで死者に囲まれて停滞した今日とは違う今日を生きればよいではないか、という挑戦も何度も試みられたが、生者は今日と今日の境の零時になると、今日を迎えたときの場所に強制的に引き戻されてしまうというのがわかってからはそうした動きも薄れていった。
何しろ無理をして今日目覚めた場所からはるか離れた場所に移動したとしても、今日の零時になれば自分の意志に関わらず元の場所に戻ってしまうのだ。しかも戻った後はすさまじい倦怠感と頭痛が襲うという副作用がついて回ると分かってからは誰も、今いる場所から遠出することをあきらめてしまった。
それでもなお今日の零時を突破しようとして遠く遠く逃げ出そうとしたチャレンジャーが居て、結局それは敵わずに想像を絶する倦怠感と頭痛によって落命したという話も聞いた。
以来その新参の死者は生前行っていたように夜明けとともに遠くに必死で逃亡する「今日」を繰り返しているという。

「にいさん こわいよ あたまが われそうだよ」

と呟き苦痛に顔を歪めながらふらふらと前のめりに歩く彼とすれ違ったことのある生者は、自分たちがどこにも行けないのだということを思い知らされて、さらに死へと誘われることになる。

繰り返しの今日が100回を超える頃になると、世の中はだいぶすっきりしてきた。
コンビニのバイトのお兄さんも死者なら、客も死者で、配送のトラックのおじさんも死者である。皆ルーチンを繰り返すだけになるともうスムーズに回るばかりで、そこには整然とした美しさすらあった。おじさんが抱えてくる食品トレーの中に入っている惣菜類も、いまでは死者がこしらえているものばかりになっているのだろう。
生者が紛れ込んではむしろこの秩序が乱れてしまう、と思えるくらいに死者たちの繰り返す日常は強固なものになっていた。
こうして社会の多数派が今日を繰り返す死者ばかりになると、「今日」とは違う今日を求めてうろちょろする生者の方がマイノリティになる。
ますます死へのハードルは下がるものの、ここに商機を見出したものが居た。
商機というのはふさわしくないかもしれない。どれほど生者から銭を巻き上げたところで、零時を過ぎればそれは「なかったこと」になるのだから。
とはいえ、残った数少ない生者に対して流行を仕掛けることが出来た人間はいた。

どうせ死ぬのなら、心地よく繰り返すことのできる今日を過ごしませんか、というサービスである。
参加した者の話を聞く限り、だいぶ簡単な話で、目が覚めた後にやりたいことをざっとノートにまとめ、それをそのノートにまとめた「やりたいこと」に優先順位をつけ、一つ一つ潰していってから零時直前に首をくくる、というそういう話らしい。
そうすれば死者となった後も「最高の一日」となった今日を永遠に繰り返せるのだ、というのが誘い文句。
うさんくさい。が、どうせ死ぬのなら面白いのかもしれない。
もっとも、死んだところで自分が「最高の一日」を繰り返しているのだということを死者たちが理解しているのかどうかはかなりあやしいところだけれども、それでも多少は死に際して報われるような気分がするのは分かる気がする。

そんな話を残り少なくなった生者とした。

死を誘う商売が増えたのと同様に、生に執着する生者向けのサービスも考案され始めていた。
仕事してるフリのサービスは、夜明けから日暮れまで、あるいは零時までの間に着手から完了まで済んでしまう仕事を次々に考案し、それを仕事がしたい生者に割り振っていった。その労働の成果はもちろん翌日には持ち越されないので徒労である。
だが仕事をはじめ、そして終わらせたという達成感を得るためにそのサービスを繰り返し使う生者は少なくなかった。
同じ仕事を繰り返しても面白くないのでバリエーションは増えていくものの、たかが一日たらずで完結できるような仕事など大した成果も生み出さない。それで徐々に刺激が薄れていったところに、ある男が完成したモノを買い取るというサービスを思いついた。
男にしてみれば、単に今日買えるものは、次の今日でも買えるまったく変わり映えしない今日の繰り返しに飽き飽きしていたところ、何か目新しいもの、それこそゴミでも金を出して買ってみたいと思っていて目についたのが、その日限りの仕事で生み出されたモノだったに過ぎないのだが、それを買い取ると言った時の生者の反応が心地よくて、何度も繰り返して買うようになった。
もはやあらゆる商店の店員たちも死者となって久しい昨今。
棒読みの「ありがとうございましたぁ」ではない、抑揚の付いた「有難うございます!」というその言葉が、男にとっては金を出して買うに値するものになっていたのだ。
どうせ零時を回れば財布の中身は元通りだから懐は痛まないとはいえ、そうした金の使い方は気の滅入る今日の繰り返しの中では数少ない気分転換になるのだろう。

残り少なくなった生者たちは、それでも今日がいつか終わるのではないかとどこかで期待している。
零時を回る前の24時間で会える範囲に生者が残るかぎり、生者は生者を求めてさまよい続ける。

今日を繰り返すようになってから、町は暗くなった。
繰り返す以前から死んでいた死者たちは、夜、明かりをつける。
今日を繰り返すようになってから死んだ死者たちは、明かりをつけずに夜を過ごす。
繰り返しの今日の中で、生者の活動とは別に今日は前回の今日とは違うのだ、と感じさせてくれるのはこの夜の光だった。
その夜の光が以前の今日よりは減っていると確認するたびに、生者たちはたしかに自分は生きているのだと感じている。
そして見える範囲で光の数が減らなくなった時、最後に残った生者は自分の家の明かりを落とす。

いずれ夜の光がまったく変わらない今日がやってくるのかもしれない。

生者たちは皆、そんなことを思いながら眠りにつく。
出来ればその今日まで生きてはいたくないな、と思いながら。

 

 

繰り返しってベタだけど厭だよな、って。
中でもこの作品の場合、おいて行かれてる感がすごく厭。ディティールは忘れてるけど、その辺の感触はまだ生々しい。

古橋の短編のはもっともっと地獄感がいっぱいいっぱいで、それだけじゃないのもいっぱいいっぱいなのでお奨めです。
・・・新装版とか出てるんだね。いい機会だから読み直そうかしら。