しばらく前に読者登録が100人になってたありがとうございます。
さておき。
これ気になるのはカウントは100人になっているのだが「おっ」と思ってプロフィール欄を見る。
すると、アイコンの数かぞえても100人にはちょっと足りないような?
むむ?
自分のブログだけだろうか?
ちっさな謎。
他から見ても100人になっているのかしらん?
さておきミリオンめざしてこれからも続けることは変わらないのでよろしくお願いします。
思えばこういうカウント的なものってあまり記事にしてない。100記事超えた時は何か書いてたかもしれない。
他にも書いたけど覚えてないのもあるか。
覚えてない、と書いて思いだしたのだが、ブログを思索のデータベースみたいにしてるブロガーの人は、良く記事の文末や文頭に自分の過去のエントリを置いてますよね、あれはとても良いと思います。
俺は勝手にはてなの方で関連記事として過去のエントリをまとめてくれるのに頼り切ってるけど、自分の書いたものをきちんと関連づけて整理してるのは見やすくて素敵。
いちど真似したいと思ってたが、思ったよりずっとめんどくさそうだったので断念した記憶。
そもそも自分が過去に書いたやつを読むのはこう・・・ちょっと酸っぱい感じがする。
もうちょっとどうにかならんのか、という気持ちと、今の自分の気持ちとはだいぶ違うな、という困惑が湧いてきたり、良い文章を読んだときのとはまた違った感情の揺さぶられ方をする。あんまり気持ちよくない。寝かせ過ぎたカレーみたいな味わい。
だから頻繁に読み返すことはないのだが、ジワジワ来るむず痒さと同時に、残しておいてよかったという安堵も湧く。
こうやって残しておかないと言いっぱなしになって数年後真逆のことを言っている、みたいな自分に気づかない惧れがいっぱいあるし、過去の記録をすぐに読み返せるブログはいいな、と。*1
書くことに成長があるかどうかはたいへん微妙なところ。
むしろ退化しているところもあると思う。加齢は恐ろしい。
しかしこうやって残してあると、本人の中では自分の変わったところ、変わってないところを点検できる。
単なる駄文を書き連ねているだけでも2年前と比べるとだいぶ変ってんな、というところもある。
駄文ではあるが、駄文のグラデーションがあるというか、この辺は書いてる自分だけが分かるものかもしれない。*2
足掛け3年、間欠的に「何かを書く」ということをやって気付いたこと。
意識にのぼることは滅多にないけど、見返してみるとやっぱり自分は日々変化しているのだということを思い知らされるということ。
その自覚を促す材料としてブログはなかなか優秀なもんだな、と思った次第。
ただ書く、ということも、続けてみると侮れない蓄積になるもんである。
もし自覚的に書くことを研鑽して続けていたら、もっと成長してたのかもしれないというIFからは目を背けたい。
明日から頑張る。
※追記。
スゲエ大事なことを書き忘れてた。
たまには昔のことを思い出そうじゃないか、って書いてて
「だから昔の記事は見られるようにして欲しい」って思いついて
ハイク潰すのはしょうがないけど、書いたもんは残してくれないものか
って書こうとしてたのをすっぽり忘れてた。
いや書いてるうちに内容がグダグダになるのはいつものことだが
書こうと思ったことがまるごと抜けてたのはたぶんはじめて。
もう少ししっかりしよう。